シンプルで豊かな日々

カジュアルに他人との縁を切りやすくなった時代だから考え直したいこと

 

昨今、ネットワーキングサービスの普及により、

他人、かつての旧友と繋がりやすくなっている。

 

いや、勝手に繋がらざるおえない状況、

と感じている人もいるでしょうか。

 

物事には全てメリット・デメリットが存在している。

 

人との繋がりができやすくなったぶん、

それと同時に人間関係の縁も切りやすくなったのは

人類の歴史からみると衝撃的なできごとかもしれない。

 

ただ、わたし個人な意見としては

人との縁がカジュアルになりすぎた結果、

ちょっと関係性が嫌になったら、すぐに縁を切る風潮に危機を感じる。

 

とくに都市部になればなるほど、人間関係の取捨選択は可能。

少し嫌だなと思えば、他人との距離もとりやすい。

 

でも、たまには本音を言い合う人間関係も必要なのではないだろうか。

 

もちろん、とんでもなく危害を加えるような人物や会社からは、損切りするように離れることも大切。

 

ただし、たまにはちょっとくらい嫌であっても

もう少しお互いの腹の探り合いをしたり、

苦手だった人が実はものすごくいい人だった。とか

深掘りしてみないとわからないこともあるのも事実。

 

人間関係とは、不合理だからこそ

魅力的なこともあるのではないだろうか。

 

他人との繋がりやすいが、深掘りもできなくなる

 

近年、資本主義が生み出した

人間関係を合理化したサービスの一つ。

退職代行サービスを例に出してみる。

 

電話一本で、まるで蕎麦屋に出前を注文するかのように退職ができる時代。

自分が入社を選択したであろう会社の退職のやりとりを代行業者に任かせる。

 

確かに便利かもしれない。

しかし一方で、他人との向き合う貴重な機会を捨て去っているとも言える。

 

なぜその会社を選んだのか?

本当に会社の上司は悪なのか?

自身のふるまいは相応しかったのか?

 

会社との雇用契約とはいえ、

結局は人と人との繋がりでもある。

 

資本主義社会では、お金を払えば大抵の問題解決はできる。

しかし、お金さえ払えば不義理さえも許されるかは別である。

 

そんなカジュアルすぎな縁切り行為は、

人間関係を無機質な物質を扱うような行為でもあるように感じる。

 

トラブルを招くも、ドラマを起こすのも人である

 

人はいつの時代でも人間関係に悩まされている。

トラブルを運んでくるのは人である。

 

しかし、思いも寄らない

ドラマやチャンスを運んでくるのも人。

 

もし、孤独でワンルームの部屋に住んでいて

足腰が弱っていて外にでられない老人生活だとどうでしょう。

 

ずっと孤独に独りでいるものだから

人との出会いがないから、トラブルに巻き込まれることはないだろう。

しかし、人生が飛躍するようなドラマも何も生まれない。

 

人との出会いがない人生は、良くも悪くも「無」なのです。

 

真面目になりすぎないくらいがちょうどいい

 

人間関係に対して、失敗を恐れすぎている人が多いのでは?というのが今回の結論。

 

人間関係をあまりに神格化させすぎてもよくないし、

センスティブにも扱わなくてもいい。

 

とくに最近では、人は人に恐れすぎであり、

他人に対して完璧を求めすぎなのではないだろうか。

 

多少なりとも、価値観が違ってもいいではないか。

自分に致命傷が負わない程度であれば。

 

人は本来、他人に傷つけられて

ときには他人を傷つけることもあって当然。

 

それでいいのではないか。

 

カジュアルに縁を切ってしまうことは、

自分自身の人としての価値観を広げるチャンスも失うこともでもある。

 

人間関係をむやみやたらに切り捨てることはリスクでもある。

かといって、人間関係を広げすぎるのもコストである。

 

広げること、深掘りすること

そしてときには距離感をあえて作ること。

 

全てのバランスを保つことが、良好な人間関係を育み

人生の豊かさを構築していくのではないだろうか。